美しい偶然と奇跡のミスディレクション

美しい偶然と奇跡のミスディレクション

本なんて大嫌いだった

昔を思い起こしてみると、僕の祖父はいつもワンカップを飲みながら読書をしている人だったし、父親の書斎も本で溢れていた。お袋もそうだ、みんな無口でずっと本を読んでいる。なんて陰湿な家族だろう。姉も児童小説のようなものを読んでみてはいかにも得意気になり「お前も読めよ」と薦めてきて癪に触った。夏休みの読書感想文なんて世紀末的に嫌だった。理由もなく活字を敬遠し、忌避していた。読書なんて陰湿なことをシコシコやっているよりも、奇声を発しながら荒野を駆け抜けたかった。ただ単に面倒臭かったんだろうと思う。なんとなくその気持ちはわかる、今も昔も基本僕なので理解しやすい。

ところが時は20世紀末、ITO細胞の突然変異により、小説を読むようなった。副作用は当然出るだろう、荒野をかけずり回る気力も失せ、この頃は原因不明の高熱や胃痛に苦しんだ。大学にはほとんど行かずにただただ小説を読んでいた。サリンジャーやフィッツジラルドなどのアメリカ文学も読んだし、ロシア文学の陰湿な感じのやつも読んだ。日本の文学ではもっと陰湿な方々の作品に触れ、なかでも太宰治のユーモアに惹かれ、夢中になったこともあったが、とりわけたくさん読んだのはミステリ小説だろうと思う。

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僕は森博嗣に大体の理屈と屁理屈を学んだ

森博嗣は学者であり研究者である。某国立大学の助教授として勤務する傍ら、1996年に「すべてがFになる(講談社)」でデビューした。これまで200冊以上刊行されているだろう、とにかく手に入るものはすべて読んでいる。やはり初期の作品が好きで、ミステリ小説の構造をことごとくひっくり返してくれた人だと思う。その思考経路をかろうじて辿ったことで、僕のなかの大体のこと、基盤のようなものは築かれたと自己分析している。

森博嗣は作品の設計図(プロット)を作らない。本人曰く、大体小説を五割くらい書いてみてから犯人を誰にするか、誰が殺されるか、最後はこうなるかな、というイメージをもって作品を完成させていくという。つまり本人もどういう結論やトリックになるかわからない。ところがこのフローが作品に意外性を与え、さらに新鮮さを与えてくれる。現に森ミステリのなかでは、厳密に構成され、実行された犯罪ではなく、自然界における偶然の連続がミステリとなる、という展開が多い。作品で登場する探偵役も、この偶然という要素が事件に絡んでくることを何の不思議と考えずに推理する。よって犯人の動機には重きを置かない、そもそもそこにロジカルを求めることが無意味なのである。

一般的な推理小説のようなカタルシスを求める読者は志向しないだろう。しかし、森作品の全体構造の叙情的な美しさを発見し、それらのピースが埋まった瞬間に解き放たれるものがある。それは森博嗣の「偶然を楽しむ」創作術とたぐいまれない美意識により生み出されるものだと確信し、夢中になったのが若き日の伊藤少年である。
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偶然を楽しむ

僕が後にものすごく興味を持つことになり、仕事をすることとなるデザインや広告といった分野でも、このスタイルというか方法論は、核になっていると思う。意外性を追求するために机上で考えることはほとんどなく、その時代や時分、健康状態や心理状態、出会いと対話、台風接近中の船上取材などで生まれるハプニングがすべてだったりする。箭内道彦氏も自信のクリエイティブスタイルを「デザイン合気道」と呼称するように、如何にハプニングさせることできるか、そしてそれを強引にでもディレクションできるかが仕事のカギとなり、醍醐味である。

偶然を奇跡に変え、それを運命と思い込み、神へと昇華させる。
次回は日本ダービーで奇跡を起こす神馬券術について、真剣に書きたいと思う。

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